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目次

○娘を救ったエピペン

「エピペン」とは、アナフィラキシーという重度のアレルギー反応を一時的に抑え、医療機関へ搬送されるまでの時間を稼ぐことのできる注射です。
私の娘には、ピーナッツに対するアナフィラキシーの既往があります。
その娘が誤ってピーナッツを食べてしまい、命の危機に陥りました。
幸い、エピペンで娘の命が救われたのですが、娘にせよ、私にせよ、誰かがそれを持っていなければ、助かりませんでした。
私たちのいのちも同様ではないでしょうか。もし私たちが永遠のいのちを持っていなければ、肉体の死の先にあるのは、罪のさばき、すなわち永遠の滅びなのです。
「御子(イエス)を信じる者は永遠のいのちをもっているが、
御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、
神の怒りがその上にとどまる。」

ヨハネの福音書3章36節

○鏡と聖書

鏡の歴史は古く、水鏡から始まり、石や金属を磨いた物、そして14世紀頃からガラスを用いた鏡が作られ、像がくっきり見ることができるようになっています。内視鏡なども鏡の仲間だとすれば、現代人はこれまで直接見ることのできなかった物を見ることができるようになっています。
しかし、この先どれだけ優れた鏡が作られたとしても、見えないものがあります。それは神様です。
ですが、神様は私たちが神様をただしく知るようにと、聖書を与えられ、
神ご自身を
「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主
ただひとり死のない方であり、
近づくこともできない光の中に住まわれ、
人間がだれひとり見たことのない、
また見ることのできない方です。」
テモテへの手紙第一6章15〜16節

と示されています。

○救いのかたち

神様の前では、救われた者はみな等しく「尊い」のです。百人いれば、百通りの救われ方があります。
ですから、救われるときはこうでなければならないと、自分で限定してしまう必要はありません。
「神の国はこのような者(子ども)たちのものなのです。
まことに、あなたがたに言います。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに入ることはできません。」
マルコの福音書10章14〜15節

○著名人と聖書(17)【シャーロット・ブロンテ(1816〜1855)】
北アイルランドの牧師夫妻の三女として生まれたシャーロットは、「ジェイン・エア」を執筆しました。妹は「嵐が丘」を書いたエミリー・ブロンテです。
シャーロットの書いた「ジェイン・エア」には、実に多くの聖書からの引用があり、信仰に関する真剣な議論が展開されています。英文学者の奥村真紀氏は、「ジェインは、自分の人生全てを支配しているのは、自身ではなく、神の手にあると信じている」と述べています。

Columun 「十字架の意味」

十字架とは一体何でしょうか。
教会の上につけられたり、様々なアクセサリーになっていますが、旧約聖書にはこのように記されています。
「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。」(申命記21章23節)

十字架はイエス・キリストが処刑された方法であることは有名です。
イエス・キリストがかけられた十字架は、木でできていましたが「木につるされる(かけられる)」とは、聖書ではのろわれることを意味しています。

実は、私たちが生きているこの世界はのろわれています。のろいの証拠は、すべての生き物が必ず死ぬということです。
人は死を当たり前のように思っていますが、これこそのろいの結果なのです。この地上において死ほど恐ろしく、悲しいものはありません。

しかし、イエス・キリストは十字架に進んで行かれ、私たち人間の罪の身代わりとなって、のろいをその身に受けてくださいました。そして三日目によみがえられました。

そのことを信じる者は、罪がもたらす死後のさばきを免れ、天国に入ることができるのです。
多くの人が老後の備えや、墓の準備に余念がありませんが、本当に大切な事柄はその先にあります。

どうか、イエス・キリストの十字架に目を向けてください。