聖書の福音をあらゆる角度からお伝えする月刊小冊子です。
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【目次】

○天国に王道なし
「学問に王道なし」という格言があります。誰にとっても、学ぶとき困難を乗り越える努力が必要だということを示しています。更に、何かを学ぶとき、先入観や固定観念に囚われていると正しく理解できないものです。人が、天国に入るためにも、特殊な方法があるわけではなく、神様の前に自分と向き合うことから避けられません。謙虚に、聖書を読まれることをお勧めします。

○愛とは何か
世の中には『愛』をテーマにした歌や小説、映画などがあふれています。でも、「愛の意味とは?」と問われると「何といったらよいのだろる」と悩む人は多いのではないでしょうか。
聖書には「愛」がたくさん登場します。
神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)を
お与えになったほどに、
世を愛された。
それは御子(イエス・キリスト)を
信じるものが、
ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
」(ヨハネの福音書3章16節)
神様にとっても、イエス様はかけがえのない存在でした。
それにもかかわらず、そのイエス様に人間の罪を背負わせて、私たちの身代わりになさったのです。
この愛について、更に聖書から読み説いてみませんか。

○著名人と聖書(4)
ー エイブラハム・リンカーン ー 聖書と共に生きた大統領
リンカーンが聖書について、
聖書は神が人間に賜った最も素晴らしい贈り物である。
人間の幸福にとって望ましいものは、すべて聖書の中に含まれています。
」と語った言葉は有名です。更に、この言葉は、解放された元・黒人奴隷たちが、革の聖書に金箔を施した高価な聖書(その表紙に黒人奴隷の足枷を解くリンカーンの姿が刻まれている)をリンカーンに贈った時に、彼が語ったと言われています。

◯私たちが帰るべき処
あなたの人生の目的は何ですか、と問われた場合に、なんとお答えになりますか。多くの人々が何の目的も見いだせずに漠然と生活をしているのではないでしょうか。旧約聖書に
私たちはみな、
羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな
道に
向かって行った。
」(イザヤ書53章6節)
と記されています。哲学者ソクラテスは、「人生とは、なんじ自身を知るにあり」と語りました。そして、人は等しく「死」を迎えます。
ちりはもとあった地に帰り、
霊はこれを下さった神に帰る。
」(伝道者の書12章7節)
死とは、肉体と霊魂が分離することで、肉体は土に帰りますが、霊魂は神のもとに帰ります。あなたはどの様な状態で神のもとに帰るのでしょうか。幸いな道を選んで、神の前に有意義な人生を送るために、聖書から学ばれますようお勧めします。

○弱味(詩)
いいかっこうをすることはない

弱いからこそ 神さまは救おうとされる
弱味は神さまに 充分に見せていい(文中より)

○この意味教えてーカタカタ編ー(22)
ー アルファ(α) & オメガ(ω) ー
ギリシャ語のアルファベットは、アルファ(α)からオメガ(ω)までの24文字です。イエス様が「わたしはアルファであり、オメガである」(黙示録1章8節)と示され、すべてのアルファベットを網羅する、つまり、イエス様がありとあらゆることを「網羅されている方」ということを表されました。

column  「残り続けてしまうごみ」

山登りをしていると、長いトングとごみ袋を持って「清掃登山」をしてくださっている方にお会いすることがあります。山に捨てられたごみは分解されないため、誰かが膨大な時間と労力を費やして取り除く必要があるのです。

すべての人が抱えているごみがあります。それは、私たちを造られた神様に背を向けてしまう性質ー罪というごみです。このごみも勝手に消えることはありません。また、どんなに時間と労力を費やしても、人の力では処理できません。

限られた人生の中で、私たちは自分の罪を認識し、このごみを神様に取り除いていただく必要があります。なぜなら、このごみを抱えたまま死を迎えてしまうと、火の池に投げ込まれ、いつまでも焼き尽くされることなく残り続けてしまうからです。

あなたがたが知っているとおり、
キリストは罪を取り除くために
現れたのであり、
この方のうちに罪はありません。
」(ヨハネの手紙第一 3章5節)

キリストは、私たちの罪というごみを背負って十字架に釘付けられ、罪を取り除いてくださいました。罪が取り除かれる唯一の方法は、そのごみが既に処分されたという事実を信じ受け入れることなのです。